2015年6月2日

まちの痕跡探偵団~移りゆくわがまち~

第 5 回 ”かわさき~”維新の街を蒸気車が走る

現在の川崎駅

川崎駅(JR)の「駅史」を読み、次の言葉に目がとまった。「明治5年(1872年)6月5日(陽暦7月10日)諸般の準備全く終え、駅長以下駅夫が待ちわびるうちに、第一列車が轟轟と当駅に進入してきた。この列車が、わが川崎駅に停車したいわば第1号列車というべきであろう。」今日の大都市川崎の始まりを告げる言葉です。我が探偵団、今回は、明治維新を迎え新たな街づくりが進む中、街と共に歩み汗を流した鉄道について、その生い立ちの一端を追った。

嘉永6年(1853年)黒船ショックによる冬眠からの目覚め、明治維新の到来は、遥か先行く欧米に“おいつけ、おいこせ”、こんな声の中で次々と革命的な大改革が断行された。東海道(徒歩、馬、駕籠)から東海道線(蒸気車)へ、川崎の街は、我が国初の鉄道が通り、新橋(街)・横濱(港)が結ばれ、中間駅として川崎駅が誕生した。今とほぼ同じ場所です。当初は、田畑に囲まれた寒村の小さな木造の駅だった。

先日、JR川崎駅から旧東海道に至る街歩きをした。一帯は、大都市の風格を備えた川崎駅を中心に、街の玄関口として発展し賑わっている。駅が開業された頃の街の面影はない。旧東海道と東海道線とは比較的近い距離にあって、ほぼ平行に走っている。この感覚は昔も今も変わらない。

●鉄道への目覚め、これが蒸気車!!動く模型を初めて見た、大変な驚きだった    嘉永7年(1854年)2月、ペリーが持ち込んだ同国大統領からの幕府への献上品の中に蒸気車模型一揃があった。精巧な出来で、横濱村海岸の応接場に引き揚げられ、約一週間かけて組立られ、運転が行われた。円状に敷かれたレール上を動く蒸気車を初めて見た公儀のお役人さん達は、思わず息をのみ目をみはった。一人のお役人さんが蒸気車の屋根にまたがり乗っていたそうです。次の蒸気車模型図は、献上された模型を描いたものですが、実写そのものではなく、どうやら巷の画師によって想像を込めて描かれたようです。当時この種の絵は、驚きの蒸気車として瓦版等で出回った。蒸気車模型図

●鉄道の敷設は、反対、反対のなかでの船出だった   国の富は産業にあり、産業の発達は交通の便が必要。鉄道の敷設は、明治2年(1869年)、英国公使パークスによって持ち込まれた。それには、進んだ欧米技術と多額の資金が必要だった。折衝は当時の大蔵少輔伊藤博文等が中心で進められたが、反対、反対で工事を興すことは至難の業だった。博文の手元には次の様な数千通の反対の建白書が集まったという。

・鉄道は敷きたし金はなし、国事多端のこの際、莫大な費用を費やすのは無駄 ・響きに驚いて魚が逃げる、ルートを海辺から離せ(漁師達の声) ・神州の土地を盾に外国から金を借り、国を売らんとするものだ ・鉄道興作の儀一切廃止し、根本を固くし、兵勢を充実する道を謹むべき(西郷隆盛)

こんな中、ただ一通賛成の建白書があった。「火輪の極めて速やかなるものは一ミ二ユートの間に能く一里を馳せ、その遅きものと雖も、よく十町を馳す。凡そ世に人力を省き、冗費を減じ、重きを載せ遠きに行く、何物の便利かよくこの右に出でんや。」この言葉には、博文、知己の思いを感じたそうだ。工事は、明治3年(1870年)に測量が始まり、仮開業の後、本開業となった。

●工事が進み、街を懸命に走る蒸気車の姿が話題を誘った 明治5年(1872年)5月7日(陽暦6月12日)仮開業、品川・横濱間直通運転を控え、姿を見せ始めた蒸気車が街の話題となった。蒸気車

試乗で大変感激した者達がいた。木戸孝允は、明治4年(1871年)8月6日の試乗で、「今日成功の一端を見るに至る喜びに絶えず、神州蒸気車の運転今日に始れり」、大久保利通は、同年9月21日の試乗で、「百聞は一見にしかず、愉快に堪えず、此便を起こさずば必ず国を起こすこと能わざるべし」の感想を残している。

また、明治4年11月10日、あの史上空前の「岩倉使節団」が欧米出発の際、品川から横浜迄関係者を載せて走り重責を果たしている。品川(当時は仮駅)での乗車は、湾の波打ち際、荒涼とした吹きさらしの砂上で待つ列車まで歩き、ようやくよじ登ったそうだ。使節団は、明治4年11月12日(陽暦12月23日)横濱港出港、総勢107名で欧米14ヶ国を約1年10カ月かけて視察した。地球を一周した使節団です。

仮開業が始まると蒸気車は、品川・横濱間を一日二往復(当初)、35分で走った。街の期待に応え矢の如く走った。

●晴れてこの日、鉄道が真に街に受け入れられ、街と共に歩み活躍を始めた 明治5年(1872年)9月12日(陽暦10月14日)本開業、新橋・横浜間29Km全通を迎えた。工事開始から完成までに約2年半の歳月を要している。新橋・横濱間の鉄道開業式典は、秋晴れの下、明治天皇をお迎えして盛大に行われた。会場には、万歳、万歳の声、祝砲が響き、日の丸の国旗が翻った。国民は文明開化の目眩むような雰囲気の中に酔った。蒸気車は、汽笛を鳴らして疾走した。沿線の家々には日の丸の国旗が一斉に翻った。蒸気車と競争する韋駄天がいた。御用新聞の東京日日は、当日の模様を報じて「神武創業以来未だ斯かる盛行ありしを聞かず」と書いている。次の絵は、街と共に歩み活躍する鉄道(蒸気車)の晴れやかな姿です。走る蒸気車

●おわりに 新たな時代、維新を語った言葉として、伊藤博文の「日の丸演説」がある。演説は、博文が「岩倉使節団」の一員として最初に訪れたサンフランシスコでの米国官民主催歓迎会で行ったものです(明治4年12月14日)。以下は、末尾のほんの一節です。

「我国旗の中央の赤き圓形は、最早帝国の封蝋(ふうろう)としては現れず、今後はその本来の意匠たる昇る朝日の尊き印章と成り、世界文明国の間に伍して、前進し向上するであろう」。

流暢な英語によるスピーチが終わった後、会場は、しばし万雷の拍手が鳴りやまなかったそうです。以上、第5回探偵団報告はこれで終わります。

●参考資料 本文とりまとめには、以下の資料を参考とした。

(1)川崎駅・駅史:昭和47年・吉村太郎                                            (2)明治文明奇談:昭和18年・菊池寛                                          (3)伊藤博文      :昭和17年・馬場恒吾                                                           (4)伊藤博文傳 :昭和 6年・久米正雄                                                                (5)明治文明史 :大正 4年・小林                                                                                                                                          


新井 正人

新井 正人(あらい・まさと)

1943年生まれです。出身は、夏目漱石、正岡子規等が活躍した四国松山(道後温泉)です。宮前区に住み始めて10年以上になります。65才で勤めをリタイアしました。その後自分が住んでるまちの事が知りたく、また何かお役にたちたいと思い"宮前区まちづくり協議会"に参加しました。痕跡探偵団は、歩きを主体にまちの歴史を振り返り、今なお残されたまちの痕跡に目を向け、移りゆくわがまちの一端を紹介出来ればと思っています。現在の団員は、私1人です・・・。

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