2015年1月21日

まちの痕跡探偵団~移りゆくわがまち~

第4回 ぶらり六郷川へ「工都川崎発祥の地」を訪ねて

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六郷川の近くに「工業都市川崎発祥の地」の記念プレートがある 我が探偵団、今回は、川崎の町が宿場町から工業都市へ第一歩を印した六郷川べり(多摩川下流)を訪ね、その歴史、痕跡をたどりながら町の歩みの一端を振り返った。

上の写真六郷川は、手前六郷橋の上から見た上流方向の遠景で、川を境に右側が東京都、左側が神奈川県(川崎市)になります。向うに見える鉄橋は、手前が京浜電車、向う側がJR東海道線です。鉄橋を越えた川べりの高層ビル街(川崎市側)のあたりが工業都市川崎誕生の場所です。

JR川崎駅西口を出て広い道路を真っ直ぐ東海道線とほぼ平行に15分程歩くと、川崎市産業振興会館前の歩道際に「工業都市川崎発祥の地」の記念プレートがある。川崎進出第1号として、明治40年(1907年)に横濱製糖株式会社(後の明治製糖川崎工場)が粗糖精製工場を建設した場所です。これを機に町には積極的な工業誘致もあり、次々と近代工業が立地集積した。DSC00882 - コピー

六郷川を蒸気車が煙をなびかせ矢のように渡る、文明開化を迎える町 川崎の町は、江戸時代、東海道の通る宿場町として賑わったが、明治維新の大改革で一変した。鎖国、サムライ日本が終り、欧米文化の嵐が怒涛の勢いで流入した。町は、宿場制度が廃止され、経済的な基盤を失い、大打撃を受けた。賑わいは全く消え失せた。すぐには対応策もなく惨憺たる瀕死の状態が続いた。

明治4年(1871年)、「六郷の渡し」のやや上流に「六郷川橋梁(当初木橋)」が架けられた。大変困難な工事だった。明治5年5月7日、横浜・品川両停車場間に初列車(仮開業)が走った。煙をなびかせ矢のように走った。川崎停車場は、初列車から約1カ月後(明治5年6月5日)、隣の神奈川停車場と同時に開場された。明治5年9月12日、横浜・品川両停車場間の予定された六つの停車場(横浜、神奈川、鶴見、川崎、品川、新橋)全てが完成し正式開業となった。かわさき停車場

歌川芳虎(生没年不詳・幕末から開化期にかけて活躍)による「東京蒸気車鉄道一覧之図」には、新橋(右側)、横浜(左側)間完成時の姿が描かれている。左上に六郷川と六郷川橋梁が、図を拡大すると中央付近に蒸気車が見える。私は、この風景は我が日本、我が川崎発展の原点と捉えている。高くそびえる富士を背景に、鉄道の姿が緑の台地、青い海、白い帆船と共に明るいタッチで描かれている。新たな時代への期待、喜びが伝わって来ます。鉄道之図

煙突が増える町、大工場の立地集積 町は、明治30年(1897年)頃やっと長いトンネルを抜け出た。明治32年(1899年)には、京浜電気鉄道の前身となった大師電気鉄道(六郷橋~大師間)が営業開始した。東京、横浜の大都会に挟まれ、海陸交通の便を備え、川の水利を有し、広大で安価な土地があることを謳い文句とした新たなまちづくり、企業誘致による工業都市へ大きく歩みを始めた。六郷川周辺に大工場が進出した。第一号は明治40年に横浜製糖㈱(後の明治製糖)が、続いて東京電気㈱(明治42年)、㈱日本蓄音器商会(明治43年)、㈱鈴木商店(明治43年)、東京製線㈱(明治45年)、富士瓦斯紡績㈱(大正4年)、東京製綱㈱(大正13年)、不二塗料㈱(大正13年)、明治製菓㈱(大正14年)、東京クローム工場(大正15年)等が次々と進出した。図は、これらの工場の位置(マル印・赤色)です。工場分布・1

 

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当時、六郷橋(六郷の渡しがあった所)の上に立つと、両岸一帯は、大小新旧の工場が分布し、遠く近くに林立する煙突から吐き出される黒煙が海風になびいていた。川面に映えるネオンサイン、立並ぶ高いアンテナ、素晴らしく大きな四角の白い建物、工場への貨車の引き込み線等が見えた。川岸には伝馬船、艀等数十隻の小舟がいた。工場には油だらけの職工さんが唸る機械を操る姿があった。土手には、朝露を踏みしめて工場へ急ぐ女工さんが、また夕方家路に急ぐ職工がいた。

町の人口が急増、賑わう町 町の様子は、大工場の建設が進んだ「工業に栄ゆる川崎町」として、「川崎を賑わす十一大工場」、「煙突の煙から生まれる町の賑わい」、「職工の激増から家屋の不足」、「職工のねぐら訪ねて」等が連載されている。(横浜貿易新報:大正7年頃)

町は家屋の不足も深刻で、家賃は二割から四割高、柱一本立てればもう借り手が押し合うという始末で、蒲田、大森あたりから通勤する職工も大勢いたようだ。工場が増えるごとに、煙突が一本増えるごとに賑わいを増した。当時の賑わいぶりは、「電燈の光に照り栄えて眠る暇のない町」、「職工成金がかっ歩する町」、「女工さん達が足早に劇場に向かう町」、「明けの明晩には弁天小僧を見に行く」、「歓楽街は連日連夜満員札の盛況を呈している」等、新聞で報道されている。町は、百軒長屋や会社の寄宿舎等が次々と建ち、人口が急増、職工、女工さん達で溢れ賑わった。

おわりに 町の賑わいは、ほど遠い仙境の村まで届いた。畑仕事の途中一休みする老翁が語った。

「谷間にゃ清水がわくし、米をつくる田もあるし、タキギをとる山もすぐうしろにあるんだから、なんといったって住よかったから、早く人家ができたのはいいが、新しい進歩というやつにぼんやりしていただ。昔は洪水や大風で住みにくかった多摩川の平野の方に新しい暮らしがはじめられてよ。そっちに町がどんどんできる。気のきいたやつはみんなその町イでかけてしまって、ぼんやりだけが残されただ。おいらもその一人だな、アハハハ・・・」(太川崎ものがたり・新聞記事・昭和31年5月11日付)

町は工業都市へ一直線にかけ足で進み、大正の中頃には「東洋のマンチェスター」と呼ばれるまでに成長した。更に臨海部の埋立、工業立地が進み、我国を代表する大工業都市へと発展した。第4回探偵団報告はこれで終わります。

参考資料 本文とりまとめには、以下の資料を参考とした。

(1)「市制記念川崎誌」:大正14年8月・川崎誌刊行会                                    (2)「川崎市勢要覧」 :昭和5年7月・川崎市役所                                      (3)「川崎郷土誌」  :昭和11年1月・川崎郷土教育研究会                                   (4)「川崎市民読本」 :昭和16年9月・川崎市教育会                  


新井 正人

新井 正人(あらい・まさと)

1943年生まれです。出身は、夏目漱石、正岡子規等が活躍した四国松山(道後温泉)です。宮前区に住み始めて10年以上になります。65才で勤めをリタイアしました。その後自分が住んでるまちの事が知りたく、また何かお役にたちたいと思い"宮前区まちづくり協議会"に参加しました。痕跡探偵団は、歩きを主体にまちの歴史を振り返り、今なお残されたまちの痕跡に目を向け、移りゆくわがまちの一端を紹介出来ればと思っています。現在の団員は、私1人です・・・。

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