2016年1月29日

まちの痕跡探偵団~移りゆくわがまち~

第6回 恐慌の風が吹く街にカフェーの賑わい

省線川崎駅付近の高所より京浜第一国道を望む(昭和初め頃)道は稲毛神社に通ずる

省線川崎駅付近の高所より京浜第一国道を望む(昭和初め頃)道は稲毛神社に通ずる

まちの痕跡探偵団、「川崎誌考(山田蔵太郎稿・昭和2年)」を読みふと目に留まった一枚の写真です。今回探偵団は、写真に残された痕跡をもとに、当時の街の姿の一端を探った。写真の中程、「高級ビールカスケード」の看板の見える建物は「カフェーマツバヤ」、隣はレコード・蓄音器屋さんです。少し離れて京浜電鉄の鉄塔が見えます。場所は、現在のJR川崎駅東口広場の一角に当たり、一帯は高層ビルが立ち並ぶ大都市川崎の表玄関として賑わっている。

●神風的な賑わいはやがて恐慌の風へ 川崎の街は、明治以来大戦によって膨れ、恐慌によって萎むスパイラル的な過程を辿ってきた。写真の昭和初め頃の川崎の街は、厳しい金融恐慌の風の下(もと)にあった。

大正3年、ヨーロッパが主戦場となる人類史上初の「第一次世界大戦(欧州大戦)」が始まり、我が国も日英同盟の“よしみ”を持って参戦した。街は、交戦国の巨大な軍需マーケットを抱え、工業地帯として驚異的な大発展を遂げている。漫然たる日々、大戦景気の美酒に酔いしれ、気も心も有頂天に浮遊し、芝居小屋、料亭、待合、貸座敷、飲食店、花街が出来、職工成金がかっ歩するなど、急速に工場労働者の街へと姿を変えていった。大正7年頃には、11の大工場を数え約2万人の工場労働者とその家族で溢れた。

船頭小唄 大正10年~大流行 森比呂志:川崎物語  漫画家の明治大正昭和・彩流社  1984.2

船頭小唄 大正10年~大流行
森比呂志:川崎物語 漫画家の明治大正昭和・彩流社 1984.2

なかでも造船業界の活況振りは著しかった。職工や下級船員の家族が多く出入する郵便局(当時・戸部三等郵便局)では、会社の勘定日の翌日、二子の袢纏(はんてん)で子供を背負ったおかみさん連がぞろぞろと五十円から百円位の紙幣を鷲掴みにして預けに来た。また、この界隈では仕立屋が一時に殖えた。俸給が十倍にもなった下級船員の家族が成金振りを発揮、何処の奥様か、そんな立派な服装をした女性が汚い路地を出入する姿が目に付いた。(横浜貿易新報・大正8年・5月23日)

しかし大正7年第一次世界大戦が終わると、こんな神風的な景気に支えられた街の賑わいは続かず徐々に後退、恐慌の風が吹き始める(戦後恐慌)。風は、大正13年に発生した関東大震災(震災恐慌)が追い打ちをかけ、昭和2年の金融恐慌、さらに昭和4年の世界恐慌(ウォール街での株価大暴落)と続き、昭和5、6年は激烈をきわめた。全国の銀行のほとんどが取付に会い経済界は大混乱、地方銀行の破綻(整理・激減)、多数の企業の人員整理、倒産を生んだ。昭和5年、川崎の街は、一時期路上に放り出された1000名を超える失業者が我先に職を求め、開設まもない川崎社会館や川崎職業紹介所へ殺到している。

●街にカフェーの賑わい こんな厳しい恐慌の風の下(もと)、庶民はよく遊んだ。昭和初め頃、銀座、浅草界隈を賑わすカフェー(酒場、割烹、喫茶・・)の数は、名前を挙げたらきりがないほどである。

川崎の街にカフェーが出来たのは大正の終りで、昭和5年頃には、サンパウロ、十一屋、キシガミ、オリンピック、松葉屋(マツバヤ)など71軒を数えた。回る舞台、天井で星屑のようにきらめく切子のシャンデリア、蓄音器から流れる流行唄(♪東京行進曲、♭駕籠の鳥・・)やジャズ、椅子・ボックスは一杯、がなり声で唄う酔っぱらいのおじさまに“もう古いわょ!!”・・流行唄のテンポは早く、多摩川のほとり六郷川の近くにあった日本蓄音器商会の工場では、朝から夕方までレコードのかけ通し、新たな流行唄の製作に余念がなかった。

カフェーで謳歌する若い腰弁!!カフェー「酒好きの若い腰弁は、夕方のカフェーにビールとエプロンの少女に青春の面白さを得て浮かれて居る。酒を呑まぬ中老の腰弁は、仕事に疲労して洋杖をつく元気もなく、眉毛に八字を寄せて毎年繁殖して行く子供の事を考えながら、とぼとぼと帰る・・・人間も酒を呑める若いうちが華で御座るわい・・・」(酒の虫・山田みのる著:磯部甲陽堂・大正7年10月発行・国立国会図書館デジタル資料)。当時の青年諸氏は、若き女給さんのエプロン姿を眩しそうに見つめていたのである。

ところでこんなカフェー礼讃時代に、突如本場浅草から「カフェーを弾圧してくれ」という投書が警視庁保安部風紀係に舞い込んだ。これにはみなさんビックリ!!このカフェー排撃居士、飲みに行ってもてなかった男のくやしまぎれかその論調は猛烈で、カフェー亡国論を論じ、最後にカフェー改良策十綱と称し、「女は二十五才、男は三十才まで自分の生まれ故郷に止まって働く事」、「カフェー重税賦課」、「女と客との対談禁止」等を挙げている。(都新聞:昭6・6・22)

●街に進出した新たなビール屋さん超安値で勝負 大正8年、鶴見川沿いに日英醸造㈱(鶴見区市場町)が進出、カフェーマツバヤの看板に見える「高級ビールカスケード」は、翌9年から製造販売されている。禁酒法の施行で不要となったアメリカの工場設備を輸入し設立されたユニークな会社であるが、関東大震災後に経営悪化、競売(昭和3年)となった。ビール界でのシェアは、約2パーセント程度だった。

後を継いだ㈱寿屋(現在のサントリー)は、「大阪商人の根性、超安値で勝負」を謳い文句に、徹底した経費削減を行い、昭和5年に「オラガビール大一本二十五銭」を発売している。他社の約三十五銭前後に比べて約3割カットの破格な廉価は、「晩酌亭主」を持つ奥さん方にモテ、モテだった。当時一般企業の課長クラスの月給は約100円位である。

横浜貿易新報 昭和6年7月27日

横浜貿易新報 昭和6年7月27日

ところがなんと皮肉なことにカフェーでは余り歓迎されなかった。「大阪商人がつくったようなけちなビールを江戸っ子が飲めるかってんだ」、安物視する声に推され、また、キリンビールから商標権侵害で訴えられ敗訴するなど厳しい状況が続いた。その後会社は、大日本麦酒へ売却(昭和9年)されている。「オラガ」は、大胆にも田中義一大将(第26代総理)のアダナ「オラガ大将」の「オラガ」を借用したようだ。議会の答弁で、「おらが国・・おらが党・・」が口癖だった。

恐慌の風が収まる時 街を吹く恐慌の風は、満洲事変(昭和6年9月18日)がきっかけで急速な収まりを見せる。「満洲国」をつくり国際連盟を脱退(昭和8年3月27日)、孤立した我が国は、「新日本建設は大陸政策から」こんな声が高まる中、早急に国防国家建設へ歩を進めたのである。街は、重工業中心に賑わいを取り戻し、昭和9年には「日本製鉄(株)」が出来るなど、更なる重工業地帯として発展の緒についた。

 ●おわりに 国際連盟特別総会で満洲国不承認が可決(昭和8年2月24日)されると、日本全権松岡洋右は、「国際連盟と協力する努力の限界に達した」と述べ、敢然と席を立ち退席した。

帰国し横濱港に降り立つ松岡を迎えたのは、港を埋め尽くす人垣、日の丸の小旗を手に怒涛のように押し寄せる万歳、万歳の歓呼の嵐であった。また、東京へ向かう特別列車が川崎駅を通過する際には、万歳、万歳の街の声に車中から顔を見せ手を振って答えた。「まち列車川崎号」・・長い恐慌のトンネルを抜けいよいよ全力疾走です。・・大戦へ向かって・・

以上、第6回探偵団報告はこれで終わります。

●参考資料 本文とりまとめには、以下の資料を参考とした。

・高橋亀吉「経済国難来」昭和4年 千倉書房                                        ・森田久「新日本の工業地帯」昭和5年 経済知識社                                          ・石角春之助「浅草経済学」昭和8年 文人社                               ・十河厳「宣伝の秘密」昭和41年 邦文社


新井 正人

新井 正人(あらい・まさと)

1943年生まれです。出身は、夏目漱石、正岡子規等が活躍した四国松山(道後温泉)です。宮前区に住み始めて10年以上になります。65才で勤めをリタイアしました。その後自分が住んでるまちの事が知りたく、また何かお役にたちたいと思い"宮前区まちづくり協議会"に参加しました。痕跡探偵団は、歩きを主体にまちの歴史を振り返り、今なお残されたまちの痕跡に目を向け、移りゆくわがまちの一端を紹介出来ればと思っています。現在の団員は、私1人です・・・。

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